西条駅と広島大学を結ぶ主な道路として、鏡山を越えていく「ブールバール」と、下見を東西に走る「下見街道」が挙げられます。このうち、「ブールバール」は公的な案内や文書内でも使用されていますが、「下見街道」はそういった場で使用されているのを見たことがありません。「下見街道」という名称の初出を探しました。
新聞データベースでは
朝日新聞の聞蔵II、読売新聞のヨミダス、毎日新聞の毎索で、「下見街道」というキーワードを検索してみましたが、記事は見つかりませんでした。国会図書館には地元紙・中国新聞のマイクロ資料もあるようですが、こちらについてはまだ調べられていません。
広大フォーラム
広島大学広報委員会は、1969年から2005年まで「広大フォーラム」という広報誌を発行していました(発刊当初は「学内通信」)。この27期8号(1996年4月発行)の「特集2 新入生へのアドバイス第二弾! 座談会 大学町”西条”を考える」に、次のような記載があります。
下見街道はほとんど街灯がないんですから。
このことから、少なくとも1996年には広大生の間で下見街道という言葉が使われていたと考えられます。
それより前は…
建設省都市局・広島県・都市環境研究所が発行した冊子「賀茂学園都市建設基本計画調査」(1975年)には、今後の東広島市の道路整備に関して以下のような記載があります。
3.原入野線
現市道西条下見線(都市計画道路)と一般県道入野檜山線を西条駅北側の新線建設によって連絡し、…(略)(111ページ)
ここでは、現在の下見街道を含む、下見交差点~西高屋駅前の道路が「原・入野線」と呼ばれていました。
この翌年、1976年発行の雑誌・新都市30巻5号に掲載されている「賀茂学園都市開発事業計画及びいわきニュータウン開発整備事業計画の概要」では、以下のような記載があります。
関連する公共施設等として整備又は整備を促進すべきものは次の通りである
道路 …(略)…、西条駅大学線(仮称)、…(略)…、下見中央道線及びこれらに接続する地区内道路…(略)(33ページ)
ここで、「下見中央道線」という言葉が登場します。この資料がこの言葉の初出かはわかりませんが、広島県議会事務局の「県政の概要」(1978年)などでもこの呼び名が使われています。また、運輸経済研究センターの「賀茂学園都市交通計画策定調査報告書」(1978年)や、「県政の概要」(1980年)には「下見中央線」という言葉が登場します。
また、1982年発行の学内通信14期7号では、西条駅から広島大学へ向かうバスの時刻表が掲載されており、この時刻表に対する補足として以下の表記があります。
※(下)は下見中央道経由)
この頃には「下見中央道」という言葉が、一般的に使われていた可能性があると考えられます。
芸藩通志
江戸時代に書かれた安芸国の郷土誌「芸藩通志」には、当時の下見村の地図(絵図)が掲載されています。この地図を見ると、下見村のちょうどいまの下見街道のあたりに「黄幡小路」という文字が確認できます。黄幡(おうばん)とは下見村の小字で、当時「黄幡小路」と呼ばれていたものが、いま「下見街道」と呼ばれるようになったのでしょうか…?
今回の調査では、はっきりとした初出を見つけることはできませんでした。何か情報をお持ちの方は、コメント欄などからご連絡いただけると幸いです。
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